断腸亭日乗を読む 六 2024年12月7日

芥川龍之介の自殺について「1927年七月廿四日。・・・前略 帰途電車の中にてたまたま鄰席の乗客『東京日ゝ新聞』の夕刊紙を携へ読めるを窺い見るに、小説家芥川龍之介自殺の記事あり。神経衰弱症に罹り毒薬を服せしといふ。行年三十六歳なりといふ。余芥川氏と交なし、かつて震災前新富座の棧敷にて偶然席を同じくせしことあるのみ。さればその為人は言ふに及ばず自殺の因縁も知ること能はざるなり。余は唯心ひそかに余が三十六、七歳の比のことを追想しよくも今日まで無事に生きのびしものよと不可思議なる心地せざるを得ざるなり。・・・以下略」小説家芥川龍之介と言って文士とは言わず。一定の評価をしていたか?菊池寛に対する態度と違うように思える。

夏目漱石について「九月廿二日。終日雨霏ゝたり。無聊の余近日発行せし『改造』十月号を開き見るに、漱石翁に関する夏目未亡人の談話をその女婿松岡某なる者の筆記したる一章あり。漱石翁は追蹤狂とやら称する精神病の患者なりしといふ。また翁が荘時の失恋に関する逸事を録したり。余この文をよみて不快の念に堪へざるものあり。縦へその事は真実なるにもせよ、その人亡き後十余年、幸にも世人の知らざりし良人の秘密をば、未亡人の身として今更これを公表するとは何たる心得違ひぞや。見す見す知れたる事にても夫の名にかかはることは、妻の身としては命にかへても包み隠すべきが女の道ならずや。然るに真実なれば誰彼の用捨なく何事に係らずこれを訐きて差閊へなしと思へるは、実に心得ちがひの甚しきものなり。女婿松岡某の未亡人と事を共になせるが如きに至ってはこれまた言語道断の至りなり。余漱石先生のことにつきては多く知る所なし。明治四十二年の秋余は『朝日新聞』掲載小説のことにつき、早稲田南町なる邸宅を訪ひ二時間あまりも談話したることありき。これ余の先生を見たりし始めにして、同時にまた最後にてありしなり。先生は世の新聞雑誌等にそが身辺及一家の事なぞとやかくと噂せらるることを甚しく厭はれたるが如し。然るに死後に及んで夫人たりしもの良人が生前最好まざりし所のものを敢てして憚る所なし。ああ何らの大罪、何らの不貞ぞや。余は家に一人の妻妾なきを慶賀せずんばあらざるなり。・・・以下略」漱石に対する敬慕の情、荷風の女性観がよくわかる。荷風にとって、妻はひたすら夫に仕えて、夫の名誉を守るのが当然の責務であった。極端に言えば、荷風にとって女は男の付属物であった。女を男の下に見て、同等の人間とは見ていなかった。女をとっかえひっかえカネで買って放蕩三昧なのは、女を人間とさえみていなかったからだろう。男尊女卑の典型のようだ。 実弟の死に際して「十二月十五日。快晴。晡下鷲津貞二郎病気危篤の電報来る。貞二郎久しく肺を病みこの夏より枕につきゐたりし趣兼ねて大久保の母上より聞きゐたれば、電報には危篤とあれど、既に亡き人の数に入りしものなるべしと思ひつつ、急ぎ自働車を倩ひて赴きぬ。鷲津の一家は震災の後下谷竹町四番地の旧地より移りて同町十五番地にささやかなる二階建の家をつくりて住めるなり。貞二郎は二階六畳ばかりなる一間に据えたる西洋ベッドの上に横はりてありしが、余の予め思ひしが如く既に事きれたる後なりけり。今日の午後一時半眠るが如くに終りしなりといふ。家人の昼餉を持ち出る前新聞を読みゐたりしが、遽に眼にちらつくを覚えて新聞紙を措きしといふ。それより昼餉一口食し二口目に及びて遽に心地あしくなりしとて、箸を措くと間もなく安らかに息を引き取りしと云ふ。行年四十五歳、未の年なり。二男二女あり。貞二郎は余とは性向全く相反したる人にて、その一生を基督教の伝道にささげたるなり。放蕩無頼余が如きものの実弟にかくの如き温厚篤実なる宗教家ありしはまことに不可思議の事といふべし。余家人と共に一夜を枕辺に明かすべきはずなれど折ゝ腹痛を催すのみならず、洋服にて畳の上に座することは寒気忍がたきを以て十二時過ぎて後辞して去りぬ。」荷風には兄弟が二人いて、すぐ下の弟がこの貞二郎で、末弟は威三郎という。威三郎は荷風の放蕩無頼を憎んでいて、1914年に荷風が新橋の遊女を妻としたとき、除籍届を出し分家し音信を断っている。

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