芸術はそれを知らない人間には、芸術という言葉自体が存在しない、と誰かが言っていた。芸術など知らなくても人間は生きることができる。ほんの一時期、小説家になることに人生の価値を見出そうと思った時期があったが、一瞬にして消えていった。芥川賞が奇を衒う小説のオンパレードになって、小説というものに吐き気を催すようになり、小説なんどに人生の価値を見出すなんて全くのナンセンスと考えるようになってから、広く文学そのものに興味を失ってしまった。以来何十年も小説を読んだことがないし、読む必要性を考えたこともない。小説など私にとって無用の長物でしかない。芸術村、文学村という村社会があって、その中の村人たちが、内輪で他愛もないことをしゃべりあい話術を楽しんで、人生の退屈な時間を紛らしている、そんな程度のものだと思い始めてから数十年が過ぎたが、その思いは今でも変わらない。世の中には無数の同好会があるが、小説界などその同好会の一つに過ぎない。文学でも加藤周一氏が「日本文学史序説」で説くような広範囲なものであれば、話は少し別だ。文学に価値があるとすれば、加藤氏の説くような意味での芸術、文学である。生活に困らない以上の金を持ち、あるいは稼いでいて、日々の単調な生活に飽き飽きしている者たちの関心は、自然と、日常からかけ離れたもの、奇なるもの、自分たちに全く縁のないものに向かう。映画でいえば、数年前に「万引き家族」なんて映画が、カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した。つい最近では「パーフェクトデイズ」で役所広司氏が最優秀男優賞を受賞して話題になっている。「万引き」がパルムドール!を受賞し、「公共トイレの清掃員」が最優秀男優賞!。金持ちたちの関心が向かうところ、金持ちたちには全く縁のない、金持ちたちの時間つぶしのお遊びの世界である。日本人の考え方の傾向として、全体から個へ関心が向かうこと著しく、個から全体へ向かうこと少ないという特徴がある。卑近な例を挙げれば、そこいらにいるじいさんばあさんたちである。どうでもいいような些細なことには目くじらを立て、公憤泡を飛ばすが、その公憤が社会全体に向かうことがない。全体から個に向かうその個は、微に入り細を穿って限りがないほどである。公共トイレをピカピカに磨いていたら、時間がいくらあっても足らず、仕事自体が成り立たない。最底辺の仕事をしている私には、公共トイレ清掃を生活の生業としている人たちがいる。公共トイレの清掃を手伝ったことがあるが、時間との戦いで、ピカピカにする時間など全くない。最低限の見た目をきれいにすることで精いっぱいである。公共トイレをピカピカに磨くのは芸術かもしれないが、現実の仕事ではない。万引きをしたことがないから、万引き人の心はわからないが、万引きされた人の憤りならわかる。万引きの技術にいかに長けていても、芸術ではない。単なる犯罪に過ぎない。