江東区長選は自民公明推薦の候補者が当選した。選挙前、新聞に誰に投票したらいいかわからないといった有権者の声が載っていた。有権者は白けているなんて書いてあった。それを読んで即座に思ったことは、選挙に白けて投票に行かないから、自民党政権が続くのだ。それを有権者が自覚しない限り、日本の政治がよくなることはない、ということであった。ドイツのメルケル前首相が、民主主義は天から与えられるものではなく、不断の努力によって維持されるものだ、と言っていたが、東ドイツ出身の人だけに、その言葉が心に響いたことを思い出した。
インフルエンザ、コロナ、マイコプラズマ肺炎などが流行しているが、マスクをしていない人が多い。こういう人たちを見るにつけ思うことは、自分の考えがなく、周りに付き従っているだけの人間がいかに多いかということである。こういう人たちは、予測することができないのだろうとよく思う。自分のしていることが、どういう結果をもたらす可能性があるかを考えることができないのだろう。夕方4時半ころには日没となり、4時ころになると薄暗くなってくる時期であるが、ライトをつけないで走っている車がある。私のような視力の弱い者には、突然車が表れて、ぎょっとすることが多い時期だ。早朝に出勤しているから、日の出前の薄暗い朝にも、ライトをつけずに走っている車があって、危ない注意しなくちゃと気を引き締める。薄暗い中でライトをつけずに走っている車の運転手は、さぞ視力がよいのだろうと羨ましくもあるが。自分のことしか頭になく、他人の立場になって考えることのできない人間がどんどん増えている。
いじめが減るどころか年々増えている。はるか昔、いじめられるということがどういうことかわかる人でなければ、いじめに対処することなどできない、いじめを解決するには、いじめられた経験を持つ人を担当者にする必要がある、と何かに書いたことがあったが、そのような試みは行われていないようだ。私もまたいじめられた人間である。幼くして父親に死なれ、赤貧洗うがごとき家庭に育った私は、見るからに貧弱に見え、特定の奴に繰り返し殴る蹴るのいじめを受けた。いじめる奴らは、徒党を組んでくるから、一人では太刀打ちできない。大男でもあれば数人が束になってかかって来ても、なぎ倒せるだろうが、食べるものも満足にない子供には、対抗する体力がない。仕返しが怖くて教師に何も言えなかった。暗黒の日々が1年も続いた。どうして耐えられたのだろうと今思い出してもわからない。いじめられた時から50年もたっているが、いじめた奴の顔を鮮明に覚えている。そのころ少しでも知識があれば、むざむざとやられっぱなしになることはなかっただろう。長じて、いじめは子供の話だけではなく、大人の世界にもあることを知って驚いた。人間とはかくも醜いものかと思ったものである。さらに驚いたのは、私のようにいじめられた人間は、いじめられる苦しみを知っているがゆえに、決していじめることはできないと思っていたが、いじめられた人間が、いじめられた腹いせに、自分よりも弱い人間をいじめるなんてことがあるのを目にした時であった。その時いじめがなくならない原因がはっきり分かったように思った。イスラエルのパレスチナ無差別殺戮も、いじめられ続けた人間たちが、さらに弱い人間たちをいじめるという構図が頭に浮かぶのである。