韓国ドラマを見始めたきっかけは、ドラマを流れる音楽に魅了されたからであった。10年ほど前から、感性に響く音楽が消えてしまい、韓国ドラマの魅力が半減してしまった。心に響く音楽がなくなると、脚本の魅力だけで見ることになる。脚本の筋立てが面白くないドラマは、全く見る気がしなくなった。1~3話ほど見れば、そのドラマの脚本が面白そうかどうかわかる。面白く感じなければ見るのをやめてしまう、というぐあいで、最終話まで見終えるドラマが、ほとんどなくなってしまった。先日、新聞に韓国ドラマが見られている理由は、脚本がよいからだというような主旨の記事が載っていた。20年ほど前のドラマなら、音楽とともに醸し出す、忘れてしまったような情感がドラマのなかに漂い、それが魅力のドラマが多数あったように思う。しかしその情感の半分は音楽から奏でられていたものであった。この数年、脚本の出来栄えで韓国ドラマを見てきたが、筋立てが支離滅裂で、何が何だかわからないと感じるようなドラマが多く、ネットで解説を見ないと筋を追うことができない。しかも解説を見てもわからないというドラマが多くなって、韓国ドラマもいよいよ卒業する時期になったか、と思っている昨今である。韓国ドラマの脚本の多くは、1~3話ほどが書かれた後、その視聴率によって、脚本の内容を変えていくのだそうだ。全話を書き終わってから、ドラマを制作するというのは少ないようだ。話の筋が支離滅裂になるのは、視聴率を見ながら、当初想定した筋書きを変えていくからなのだろう。というわけで、40年ぶりくらいに日本ドラマを見始めたが、すぐにギブアップした。ドラマに使われる言葉の汚さが、耳にがんがん響いて、嫌気がする。日本ドラマなんてこんなものかとすぐに見るのをやめて、しばらく見ていなかった中国ドラマを見始めた。中国ドラマ再訪である。見始めて最初に感性に響いたドラマが、「君、花海棠の紅にあらず」であった。中国ドラマは時代劇が多く、その感想は以前に書いたことがある。現代劇をあれこれ見たが、興味を引くようなドラマに巡り合わない、というよりは韓国ドラマの二番煎じのようなものが多いように感じる。見ていて、あれ?どこかで見たな,というものが多い。それで現代劇は興味がなくなった。時代劇では、皇帝や王子や王女が主人公のドラマは、見る気がしない。庶民が王族のような権威にひれ伏すと言った筋のドラマは、虫唾が走る。だから時代劇でも、そういう類のドラマでないものを見ている。見ていて直感的に気づくことは、舞台の豪華さである。中国ドラマ界は資金が豊富だと聞いたことがあるが、なるほどと感心している。時代劇の舞台はとても魅力的で美しい。舞台の豪華さなどに目が行くのは、ドラマの筋が、のめりこむような魅力的なものではないからだ。そんな程度だと納得して見ている。「君、花海棠の紅にあらず」のような1930年代あたりを背景にした中国ドラマを見たいと今は思っている。